
「言葉が…言葉が足りないブー…でも、それでも伝えたかったんだブー…」
2025年5月25日放送の『おしゃれクリップ』(日本テレビ系)に出演した俳優・志尊淳(30)。彼が明かした“生と死の狭間の記憶”は、視聴者の胸に深く刻まれるものだった。
「死を覚悟した」
──それは単なる病気の記録ではない。彼の歩んできた人生と、心の奥にある“家族への想い”がすべて織り込まれていた。
ここでは、その背景と“なぜ彼はLINEを遺書のように送り続けたのか”を、時系列で紐解いていこう。
【第1章】小5のハンバーグ──離婚という現実に子どもはどう向き合ったか
小学校5年生のとき、両親の離婚を知らされた志尊淳。
- 家族で囲む食卓が「別れの場」になった瞬間
- 涙ながらにハンバーグを食べた“忘れられない味”
- 母はその後、朝から晩まで働きづめだった
貧困、不安、孤独──この経験が、彼の“感情の原風景”となり、後に「家族に後悔してほしくない」と願う感情の源となった。
【第2章】17歳の家出──「誰にも言わず、引っ越した」
高校2年生、17歳。きっかけは些細な兄姉との喧嘩だった。
「お前のこと興味ないから」(兄)
この言葉に傷つき、彼は突発的に誰にも告げずに家を出る。
- 応援してもらえてないと感じた孤独
- 「誰も理解してくれない」感情の爆発
- 完全な“単独離脱”としての家出
後に再会した兄に殴られ、「母親泣かせてどういうことかわかってんのか!」と怒られたことも、志尊の心には“愛の裏返し”として残った。

「帰ってこれる場所があるって、どれだけ幸せなことか…思い知るブー…」
【第3章】26歳の春──心臓が「ババババッ」と鳴った日
26歳の春。身体に異変が起きた。
その翌日、病院へ。心エコーを受けた医師は、結果を見た瞬間、走って戻ってきた。
- 志尊は仕事の予定を理由に一度は断ろうとした
- 医師の説得で即入院→ICU直行
生死の境目にいた、26歳の春だった。
【第4章】ICUの記憶──後悔のファイルが一気に開いた
目が覚めたとき、彼はICUのベッドにいた。母の声が聞こえる。医師からは、
これを聞き、志尊の中に“初めての恐怖”が湧き上がった。そして──
- もっと会えばよかった人たち
- ちゃんと伝えられなかった感謝
- 家族に残しておきたかった言葉たち
“人生の棚卸し”が始まった。
【第5章】LINEという遺書──「大好きだよ」と毎日送り続けた理由
それが彼の行動原理だった。
- 毎朝・毎晩、母と姉に「大好きだよ」とLINEを送る
- 言葉が“もしものときの最後のメッセージ”になるように
姉「母が泣いているのを見て、私も不安で怖かった」
それでも、彼は送り続けた。

「言葉って、残せるんだブー…あったかいまま、相手に届くんだブー…」
【第6章】急性心筋炎とは──“若いから大丈夫”はもう通じない
急性心筋炎とは、主にウイルス感染によって心筋(心臓の筋肉)が炎症を起こす病気だ。
- 若くてもかかる
- 風邪に似た症状から始まり
- 予兆がなく突然死に至ることもある
志尊を診た医師は、「半年前に同じ症状で若者を亡くしたことがあった」と告白。だからこそ“走って戻ってきた”のだ。
彼が救われたのは、
- 症状を軽視せず、すぐに検査を受けた
- 違和感を「気のせい」で済ませなかった
この判断が命を繋いだのだ。
【第7章】“気のせい”を疑え──見逃さないために必要な意識
この異変を無視していたら──結果は違っていたかもしれない。
チェックすべきサイン:
- 異常な動悸や心拍の乱れ
- 胸の圧迫感
- 息苦しさ
- 強い倦怠感や発熱が続く
「まさか自分が…」と思わず、検査という選択を持つこと。それが命をつなぐ“最初の判断”になる。

「気のせいにしない。それだけで未来が変わるブー…」
【第8章】志尊淳の生還──母の子でよかった、と彼は言った
3週間の入院生活が、彼を変えた。
- 命の危機を経て、生きていることが当たり前でないと知る
- 家族に向けた感謝と愛情が、言葉として明確になった
この言葉は、ただの感謝ではない。命を懸けた再確認だ。
死に直面し、愛を思い知り、生きて還ってきた者だけが語れること。
【まとめ】「遺書」のような言葉が、人生を未来へ運ぶことがある
- 誰かに何かを伝えるのに、“遅すぎる”ことはある
- でも、“早すぎる”ことはない
それは、“未来へ残すための言葉”だった
生きているからこそ書ける“遺書のような言葉”。それは、死の恐怖に打ち勝つための、最も人間らしい行動なのかもしれない。
だから今、あなたも誰かに言ってみてほしい──
- 「ありがとう」
- 「大好き」
- 「ごめんね」
その言葉が、きっといつかの“棚卸し”を、温かくしてくれるから。

「言葉って、生きてるうちに渡すギフトなんだブー…」
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