ジブリはどこへいく──なぜ今の子供たちはトトロを知らないのか?“サブスク”未解禁の深層

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「ある日、森の中で出会った、不思議で大きくて、モフモフした生き物との交流を描いた物語でね…」

ほんの一昔前なら、この一言で、教室中の子供たちの目がキラキラと輝き、「トトロだ!」という合唱が起こったはずだ。しかし今、教育の現場では、静かだが、極めて深刻な“文化的断絶”が起きているという。

ベテランの教師が、かつては何の疑いもなく使っていた『天空の城ラピュタ』や『もののけ姫』を例え話に出しても、生徒たちの反応は鈍い。「あんまり知らないです」「見たことがない」。そうした素朴な声が、世代間に横たわる、想像以上に深く、暗い溝の存在を浮かび上がらせる。

かつて、スタジオジブリの作品群は、日本社会における“共通言語”そのものだった。親子三代で「バルス!」と叫び、夏が来るたびに『となりのトトロ』を家族で観る。それは単なるアニメーションの枠を超え、一つの国民的な文化体験として、私たちの記憶に深く刻み込まれてきた。

しかし、その文化が今、静かに継承の危機に瀕している。

多くの人々が、その最大の原因として指摘するのが、NetflixやAmazon Prime Videoといった、現代の映像視聴の主戦場である「ストリーミングサービス(サブスク)」で、ジブリ作品がほぼ観られないという、極めてシンプルで、しかし根深い事実だ。

  • なぜ、世界に冠たる日本の至宝は、自国の子供たちにとって、最もアクセスしにくいコンテンツの一つになってしまったのか?
  • それは、一人の天才監督の揺るぎない哲学が、時代の変化を拒んでいるからなのか?
  • それとも、放映権を持つテレビ局の、ビジネス戦略が巨大な壁となっているのか?
  • そして、なぜ海外の視聴者は、自国のNetflixで当たり前のように『千と千尋の神隠し』を観られるという、不可解な“ねじれ”が生じているのか?

これは、単なるアニメの配信問題ではない。一つの文化が、いかにして次世代に受け継がれ、あるいは失われていくのかを記録する、現代日本のドキュメントである。


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第一章:「感覚」と「データ」の残酷な真実──本当にジブリを観る機会は減ったのか?

「サブスクにないと言っても、金曜ロードショーでしょっちゅうやっているじゃないか」

そうした感覚を持つ大人世代は、決して少なくないだろう。まず我々は、この長年培われてきた「感覚」が、本当に正しいのかどうかを、客観的なデータで検証する必要がある。


【検証①:金曜ロードショーの放送頻度】

過去数年間(2021年~2023年)の日本テレビ「金曜ロードショー」の放送実績を調査すると、スタジオジブリ作品は、夏休みなどの大型連休を中心に、年間で平均7~9作品程度が放送されていることがわかる。

これは、約1ヶ月半~2ヶ月に1回以上は、地上波でジブリ作品に触れる機会がある計算になる。

「頻繁にやっている」という感覚は、決して間違いではない。視聴率も、多くの場合10%前後かそれ以上を記録し、テレビが斜陽といわれる現代においても、依然として最強クラスのキラーコンテンツであり続けている。


【検証②:視聴スタイルの“地殻変動”】

問題は、放送の頻度そのものではない。問題の核心にあるのは、現代の子供たちの「視聴スタイル」との間に生じてしまった、致命的なまでのミスマッチである。

総務省が発表する情報通信白書などの各種調査によれば、10代から20代の若年層におけるテレビのリアルタイム視聴時間は、年々右肩下がりで減少している。

その代わりに彼らの時間を奪っているのが、YouTubeやTVer、そして定額制のストリーミングサービスといった、オンデマンド(好きな時に好きなものを観る)型の視聴だ。


POINT

「金曜の夜9時に、家族揃ってテレビの前に座る」
かつては日本の標準的な光景だったこの生活習慣は、もはや絶対的なものではない。習い事、友人とのオンラインゲーム、SNS、スマートフォンの存在…。子供たちの可処分時間の奪い合いは、かつてないほど熾烈だ。

その中で、放送時間をじっと待たなければならず、一度見逃すと次はいつ観られるか分からないTV放送は、オンデマンドサービスに比べて、圧倒的に不利な視聴形態なのである。

ブクブー
ブクブー

「確かに…!昔は金曜ロードショーが楽しみで、一週間前からワクワクしてたけど、今の子供たちは観たいものがスマホにいっぱいあるんだブー…。僕たちが当たり前だと思ってたことが、もう当たり前じゃないんだブーね…」


【結論:機会は存在するが、アクセスしにくい“古典”へ】

つまり、こういうことだ。
ジブリ作品は今も定期的に「提供」はされている。しかし、その提供方法が、メインターゲットであるはずの子供たちのライフスタイルと完全に乖離してしまった。

その結果、彼らにとってジブリは「アクセスしにくい」コンテンツになっている。

これが、「ジブリを知らない子供たち」が生まれる、第一の構造的な要因だ。

かつて、家庭に一台のテレビしかなく、チャンネルの主導権を親が握っていた時代のように、ジブリが自動的に「お茶の間の中心」になることは、もはや困難なのである。


第二章:クリエイターの魂という名の“聖域”──宮崎駿監督の「劇場主義」

では、なぜ時代の潮流であるサブスクに、ジブリは頑なに背を向けるのか。
その根源を探る旅は、避けては通れない、一人の天才クリエイターの魂の深淵へと我々を導く。

宮崎駿監督の、作品に対する揺るぎない哲学である。

宮崎監督の作品哲学を理解する上で欠かすことのできないのが、彼自身がアニメーションの世界に人生を捧げるきっかけとなった、強烈な原体験だ。高校3年生の時、彼は東映動画(現・東映アニメーション)の記念すべき長編第一作『白蛇伝』を、映画館で観た。そして、魂を根こそぎ揺さぶられるほどの感銘を受けた。

暗闇に包まれた劇場の中、巨大なスクリーンに映し出される、圧倒的な色彩と生命の躍動。それは、彼にとって単なる娯楽ではなかった。人生の進路を変えてしまうほどの、非日常的な「事件」だったのだ。

この原体験こそが、彼の創作活動の全てを貫く「劇場主義」の源流である。

彼の過去の発言や、盟友であるプロデューサー・鈴木敏夫氏の証言を統合すると、その哲学は、以下の三点に要約できる。

  1. 映画は「非日常」の体験でなければならない
    映画館という、日常から切り離された特別な空間で、スマートフォンの電源を切り、作品世界に完全に没入すること。それこそが、映画が観客に与えるべき、最も価値ある体験だと彼は信じている。
  2. “便利な道具”への矮小化に対する、強い抵抗
    作品がビデオやDVDとしてパッケージ化され、家庭で安易に繰り返し再生されることに対し、彼はもともと強い抵抗感を持っていた。それは、心血を注いで作り上げた映画という「特別な体験」が、親が子守りのために安易に使う「便利な道具」へと価値を貶められてしまうことを、極度に嫌ったからだ。テレビでの放送に対しても、内心では苦々しく思っていた、という関係者の証言は少なくない。
  3. 子供の記憶に刻む、一度きりの「美しい体験」
    彼が作りたいのは、大量消費されるコンテンツではない。子供たちの記憶の奥底に、美しく、そして鮮烈な原体験として、生涯にわたって刻み込まれる映画だ。そのためには、映画館という「ハレ」の舞台装置こそが、ふさわしい。
ブクブー
ブクブー

「そうだったのかブー…。宮崎監督にとっては、映画館で観てもらうこと自体が、作品の一部なんだブーね。スマホで手軽に観てほしくないっていう気持ち、なんだか分かる気がするブー。すごく大事に作ってるからこそなんだブーね」

この哲学は、ビジネス上の効率性や市場原理とは全く異なる次元に存在する。極めて純粋で、そして頑固な「クリエイターの魂」の発露だ。

いつでも、どこでも、何度でも、好きなシーンだけを観られるサブスクという利便性の塊は、宮崎監督が守ろうとしてきた「映画の神聖さ」とは、まさに対極に位置する存在なのである。

この強固な哲学が、スタジオジブリの経営判断に、今なお絶大な影響を与え続けていることは間違いない。


第三章:ビジネスの掟──“虎の子”を手放せない日本テレビの論理

宮崎監督の崇高な哲学だけで、この問題の全てを説明することはできない。
我々はもう一つの巨大なプレーヤー、日本テレビ放送網の存在を、真正面から見据えなければならない。

日本テレビとスタジオジブリの関係は、単なる放送局とアニメ制作会社というビジネスライクな関係を、遥かに超えている。極めて深く、歴史的なものだ。

その始まりは、1984年の映画『風の谷のナウシカ』の製作委員会に、日本テレビが中核として参加したことにまで遡る。

以来、同局はジブリ作品の最大の支援者であり続け、その見返りとして、日本国内におけるTVでの独占放送権という、もはや金銭には換算できないほどの価値を持つ、絶大な権利を手にしてきた。

日本テレビにとって、ジブリ作品は、以下のような意味を持つ、まさに「虎の子」と呼ぶべき、最重要戦略資産なのである。

  • 【資産価値①】高視聴率が“確定”している最強のキラーコンテンツ
    前述の通り、ジブリ作品は、新作・旧作を問わず、安定して高い視聴率を獲得できる、現代では数少ないコンテンツだ。テレビの視聴者全体のパイが縮小し続ける中で、その価値は相対的にますます高まっている。
  • 【資産価値②】「金曜ロードショー」という“ブランド”の心臓部
    「ジブリといえば金ロー」「夏はジブリ」という強力なブランドイメージは、TV局としての日本テレビの価値そのものを象徴している。このブランドを守ることは、局のアイデンティティを保つ上で不可欠だ。
  • 【資産価値③】TV放送という“ビジネスモデル”の最後の砦
    もし、もしもジブリ作品が国内のサブスクで全面解禁されたら、何が起きるか。多くの視聴者は、もはや金曜の夜9時までテレビの前で待つ必要がなくなる。それは「金曜ロードショー」の視聴率の致命的な低下に直結し、結果としてCM収入というテレビ局の根幹をなすビジネスモデルを、内側から破壊しかねない。
POINT

つまり、日本テレビの立場からすれば、ジブリ作品をサブスクに解放することは、自らの最大の武器を、最大の競合相手であるストリーミングサービスに、両手で恭しく明け渡すに等しい、完全な自殺行為なのである。

宮崎監督の「劇場主義」というクリエイターの魂は、結果として、日本テレビの「TV放送死守」というビジネス戦略と、奇妙な形で利害が完全に一致し、国内サブスク未解禁という現状を、二重三重に強固なものにしているのだ。


第四章:最大の“ねじれ”──なぜ海外のNetflixでは当たり前に観られるのか?

この問題をさらに複雑で、不可解なものにしているのが、「海外のNetflixでは、ほとんどのジブリ作品が観放題である」という、衝撃の事実だ。

宮崎監督の哲学が絶対なら、なぜ海外では配信が許されたのか?
日本テレビの権利が国内限定なら、なぜジブリは海外で独自に動いたのか?

この一見、矛盾した決断の裏側を紐解くと、スタジオジブリの、極めて現実的で、したたかなビジネス戦略が浮かび上がってくる。

海外配信が決定された2020年当時の報道や、鈴木敏夫プロデューサーの発言を分析すると、その理由は主に2つあったと考えられる。


理由①:新作映画の“莫大な製作費”を確保するため

鈴木プロデューサーは当時、海外メディアのインタビューなどで、配信権の売却が「映画を作るためのお金」を得るためであったことを、極めて率直に認めている。宮崎監督の新作『君たちはどう生きるか』のように、数年から十年単位の歳月と、もはや天文学的な予算を要する作品作りを続けるためには、旧来のディスク販売やTV放映権料だけでは、もはやスタジオの経営が立ち行かなくなっていた。海外市場という新たな収益源の開拓は、スタジオの存続にとって、避けては通れない道だったのだ。


理由②:国内市場と海外市場を“切り分ける”という高等戦術

この配信契約の、最も重要な点。それは、配信地域から日本と北米(当時はHBO Maxが権利獲得)が、綺麗に除外されたことだ。
これにより、日本国内の権利を持つ日本テレビのビジネスには一切の影響を与えず、同時に、海外の巨大市場から莫大なライセンス料を得るという、二兎を追う離れ業を可能にした。これは、長年のパートナーである日本テレビへの最大限の配慮であり、ビジネスパートナーとしてのスタジオジブリの老獪さを示す、見事な一手だった。


ブクブー
ブクブー

「ええええええ!? 海外では観られるの!?ずるいんだブー! …って思ったけど、新しい映画を作るためのお金が必要だったんだブーね…。それに、日本のテレビ局のこともちゃんと考えてあげてるんだブー…。うーん、複雑だけど、なんだかすごい話だブー…」

ちなみに鈴木プロデューサーは、この決断について「宮崎駿は、自分が関わっていないので、何も知らない」「彼(宮崎監督)は、デジタル配信が何なのか、いまだによく分かっていないんだ」といった、冗談とも本気ともつかぬ発言を繰り返している。

これは、建前上は宮崎監督の「哲学」という聖域を傷つけず、しかし実利は抜け目なく確保するという、彼ならではの高等戦術だったのかもしれない。


第五章:たった一つの例外、『火垂るの墓』が示す“権利”の迷宮

ジブリ作品の中で、唯一、日本国内のストリーミングサービス(Netflixなど)で視聴可能な作品がある。

それが、高畑勲監督の不朽の名作、『火垂るの墓』だ。

なぜ、この作品だけが例外として存在するのか。
その理由は、作品の権利構造にある。『火垂るの墓』は、原作が野坂昭如氏の小説であり、その出版元である新潮社が著作権の主要な部分を保有している。そのため、この作品の配信に関する判断は、スタジオジブリや日本テレビの意向だけでは決まらず、権利者である新潮社の判断が大きく影響するのだ。

この事実は、ジブリ作品の配信問題が、単なる哲学やビジネス戦略だけでなく、一つ一つの作品が持つ、極めて複雑な「権利関係」という名の迷宮に縛られていることを、静かに、しかし雄弁に物語っている。

今後、もし他の作品の配信が検討されるとしても、製作委員会に名を連ねる各社の利害調整など、我々が想像する以上に、乗り越えるべきハードルは無数に存在するのだ。


終章:岐路に立つ文化遺産──ジブリは“古典”になるか、それとも“思い出”に変わるか

我々が今、直面している「ジブリを知らない子供たち」という、静かな、しかし深刻な現象。
その背景には、単一の分かりやすい悪役がいるわけではない。

  • 一人の天才クリエイターが守ろうとする、作品の「神聖さ」という名の魂。
  • 一社のテレビ局が守ろうとする、自らの「ビジネスモデル」という名の生活。
  • そして、作品ごとに異なる、複雑怪奇な「権利の網の目」という名の現実。

これら3つの要素が、強固で、解きがたい三角形を形成し、スタジオジブリという偉大な文化遺産を、現代の子供たちから遠ざけている。

これが、本稿がたどり着いた、この問題の全貌である。

この現状が続けば、ジブリ作品は、もはや「国民的アニメ」という称号を失うかもしれない。それは、リアルタイムで熱狂した親世代が、子供に必死に語り継ごうとするが、うまく伝わらない「美しい思い出の品」へと、その姿を変えていくだろう。それは、博物館のガラスケースに飾られた、誰も触れることのできない「高尚な古典」になる道だ。

しかし、文化とは、本来、生き物であるはずだ。
新しい世代が、新しいメディアで、新しい解釈を加えながら触れ続けることで、初めてその命脈は、未来へと受け継がれていく。

スタジオジブリと、その最大のパートナーである日本テレビは、今、単なる作り手や放送事業者としてではなく、文化の継承者として、重大な岐路に立たされている。
自らが作り、守り育ててきた偉大な作品群を、未来の子供たちに、どのような形で手渡していくのか。

その決断が、日本のポップカルチャーの未来地図を、大きく塗り替えることになるのかもしれない。

ブクブー
ブクブー

「ジブリの映画が、昔の人が見てた難しい白黒映画みたいになっちゃうのは、やっぱり寂しいんだブー…。いつか、僕たちの子供や、そのまた子供たちも、スマホで気軽にトトロに会える日が来るといいんだブー…」

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