多くの日本人が、彼の名を一度は目にしたことがあるだろう。X JAPANのボーカリスト、Toshl。
しかし、その名をキーボードで打つ者の多くは、無意識のうちに一つの「誤記」を犯している。それは、最後のアルファベットを大文字の「I(アイ)」、すなわち「TOSHI」と打ってしまうことだ。
だが、正しくは小文字の「l(エル)」を用いた「Toshl」である。
一見すれば、あまりにも些細な違い。しかし、この一文字の変更には、壮絶な過去との決別という個人的な誓いと、二度と搾取されないための法的な戦略という、二つの極めて重要な意味が込められている。
さらに近年、芸術活動の際には「龍玄とし」という、もう一つの名が用いられる。
なぜ彼は、複数の名を使い分けるのか。
そこには、単なるイメージ戦略では説明がつかない、彼の喪失と再生の物語が、幾重にも折り重なっている。
本稿は、Toshlというアーティストがその名に込めた意味を、彼の著作、過去の会見、そして現在報じられている全ての情報を元に多角的に分析し、その深層に迫る調査報道である。
これは、単なる芸名の由来を解説する記事ではない。一人の人間が、「名前」という自己の根源を取り戻し、未来をその手に掴むまでの、闘いの記録である。
第一章:記号としての「TOSHI」──栄光と、12年続いた“魂の搾取”
「Toshl」を理解するためには、まず、彼が捨て去った過去の名前、「TOSHI」が持つ意味を正確に把握しなければならない。
全て大文字で綴られたこの名は、日本の音楽史に燦然と輝く栄光の象徴であったと同時に、彼の魂を蝕んだ12年間の苦悩の象徴でもあった。
栄光の頂点と、忍び寄る心の闇
1989年のメジャーデビュー以降、X(後のX JAPAN)は社会現象を巻き起こした。そのフロントマンとして、天を突き抜けるようなハイトーンボイスを轟かせたのがTOSHIである。東京ドームを即日完売させ、紅白歌合戦に常連として出場。彼の名は、日本のロックシーンの頂点に立つ者の代名詞となった。
しかし、その華やかな成功の裏側で、彼の心は深く摩耗していた。家族との確執、バンド内での孤立感、そして「XのTOSHI」という巨大なパブリックイメージと、繊細な本来の自分との乖離。
後に彼自身が著書『洗脳 地獄の12年からの生還』で詳細に告白しているように、その精神的空白に、ある組織が静かに、しかし巧みに入り込んだ。
自己啓発セミナー団体「ホームオブハート(以下、HOH)」である。
「TOSHI」という名の“商品化”と“奴隷契約”
1997年4月、TOSHIはX JAPANからの脱退を表明し、世間に衝撃を与える。その背景には、HOHからの強い影響があった。以降、2009年に決別するまでの約12年間、彼は完全にHOHの支配下に置かれることになる。
この期間、「TOSHI」という名前は、彼個人のものではなく、HOHの資金源としての商品と化した。彼が行った全国でのコンサートやディナーショー、CDやグッズの販売による収益は、そのほぼ全てがHOHに渡っていた。
2010年1月18日に行われた決別の記者会見で、Toshl本人が語った内容は、あまりにも衝撃的である。
「僕の12年間の所得は、経費以外、僕には一銭も渡っておりません」
「僕の年収は平均して1億円を超えていたと思いますが、それも全て(団体に)渡っていました。最終的には暴力や罵倒が毎日続くようになり、奴隷のような日々でした」
推定10億円以上とされる稼ぎが、彼の手元には一切残らなかった。彼は「TOSHI」という名の奴隷として、ただ歌い、働き続けることを強いられたのだ。この期間に制作された楽曲の著作権や肖-像権も、複雑な契約によってHOH側に帰属する形となっていた。「TOSHI」という名は、彼を栄光の座に押し上げた記号であると同時に、彼から全てを奪うための“契約上の鎖”でもあったのである。
第二章:「Toshl」への改名──過去との決別と、未来を守るための“法的戦略”
2010年。HOHとの完全な決別と自己破産を公表した記者会見の場で、彼は新しい名前を発表する。それが「Toshl」であった。
この改名は、単なる心機一転の宣言ではない。
それは、心理的な再生への誓いと、過去の搾取構造から未来の自分を守るための、極めて戦略的な法的措置という、二つの側面を併せ持っていた。
A. 心理的な意味:「1」からの再出発という、魂の誓い
まず、精神的な意味合いは明確である。
- 過去との決別: 全て大文字の「TOSHI」は、HOHに支配され、利用され続けた12年間の象徴。その表記を自ら捨てることで、過去の自分と決別し、新しい人生を歩むという強い意志を内外に示した。
- 「1」からのリスタート: 小文字の「l(エル)」は、数字の「1(いち)」とも読める。これは、彼が会見で語った「ゼロから、マイナスからの再出発」という言葉を、そのまま名前に刻み込んだものだ。全てを失った状態から、再び「一」歩ずつ歩み始めるという覚悟の表れである。
- 謙虚さの表明: 全て大文字が持つ、自己を大きく見せるイメージを捨て、小文字を交えることで、一人の人間として、等身大の自分として謙虚に活動していくという姿勢を示した。これは、巨大な虚像としての「TOSHI」から、生身の人間としての「Toshl」への回帰を意味していた。

「ただのイメージチェンジじゃなかったんだブー…。壮絶な過去とさよならして、『もう一度、一人で、一から歩き出すんだ』っていう、悲しくて、でもすごく強い決意が、あの『l』の一文字に込められてたんだブーね…」
B. 法的・経済的な意味:二度と搾取されないための“盾”
そして、この改名には、もう一つの極めて重要な側面が存在する。それが、彼の未来を守るための、緻密に計算された法的防衛線であった。
- 権利関係の完全分離: ToshlがHOHと決別した後も、HOH側は過去に制作された音源などを「TOSHI」名義の作品として販売し続けていた。「TOSHI」という名前そのものが、過去の不当な契約によって法的に汚染され、HOHの利権と深く結びついてしまっていた。
- 利益流出リスクの回避: もし彼が「TOSHI」名義のまま新たな活動を始めれば、HOH側が過去の契約を盾に「新生TOSHIの活動から生じる利益も我々のものだ」と主張してくる可能性があった。これを法廷で争うには、莫大な時間と費用、そして精神的負担を強いられる。
- 法的な“別人格”としての再始動: そこで、名前を「Toshl」に変更することは、法的に「“TOSHI”とは別人格のアーティスト」として活動を再開することを意味する。商標や著作権の世界では、表記の違いは別人格として扱われる。これにより、新生「Toshl」として得た収入や権利は、過去の契約とは一切無関係であることを主張しやすくなる。これは、HOHからの不当な請求や干渉を未然に防ぎ、アーティストとしての経済的自立を確保するための、必要不可欠な措置だったのである。
つまり、「Toshl」への改名は、過去からの魂の解放であると同時に、未来の自分を法的に守るための堅牢な「盾」でもあった。この二つの側面が両輪となって、彼の劇的な再出発を支えたのだ。
第三章:「龍玄とし」の誕生──音楽の枠を超えた、“自己表現の統合”
「Toshl」として再出発を果たした彼は、X JAPANのボーカリストとして、そしてソロの音楽家として、再び精力的な活動を開始する。
しかし、彼の再生の物語は、それだけでは終わらなかった。
彼は、音楽という枠組みさえも超え、新たな表現の領域に足を踏み入れる。それが、絵画を中心とした芸術活動であり、その際に用いられるのが「龍玄とし」という、もう一つの名である。
この名前は、「Toshl」が過去からの“脱却”を象徴する名であるのに対し、未来へ向かう“創造”を象徴する名と言える。
名の由来は、自らが描いた「魂の龍」
「龍玄(りゅうげん)」という名は、彼自身が描いた一枚の龍の絵画のタイトルに由来する。彼はその絵に自身の魂の姿を重ね合わせ、強いインスピレーションを受けたことから、それを自らのアーティストネームとして採用した。
- 「龍(Ryū)」が象徴するもの: 天高く昇る龍は、古来より力強さ、生命力、そして魂の飛翔の象徴とされる。彼の作品には頻繁に龍が登場し、それは苦難を乗り越えて再生しようとする彼自身のエネルギーの具現化とも見て取れる。
- 「玄(Gen)」が意味するもの: 「玄」という漢字は、奥深い、計り知れない、幽玄といった意味を持つ。また、万物の根源である「黒」を示す言葉でもある。これは、彼の芸術が持つ神秘性や、その創造性の源泉が、光だけでなく深い闇(苦悩の経験)からも生まれていることを示唆している。
総合芸術家としての、新たなアイデンティティ
近年、彼がバラエティ番組などで見せる「スイーツ好きの面白い人」というキャラクターは、この「龍玄とし」名義で出演することが多い。
一見、龍や玄という重厚なイメージとはかけ離れているように思える。
しかし、これは彼が「Toshl」という音楽家の枠組みさえも超え、自身のあらゆる側面――歌、絵、トーク、そして人間的魅力の全て――を包括した、一人の総合芸術家「龍玄とし」として生きるという覚悟の表れではないだろうか。
かつて「XのTOSHI」という、作られた仮面に苦しんだ彼が、今度は自らの意志で、多面的な自分を全て肯定し、それを表現の名として掲げているのだ。
終章:名前が語る、壮絶な喪失と再生の物語
我々は、Toshlというアーティストの名に隠された物語を追ってきた。それは、我々が想像する以上に、彼の人生そのものを賭けた闘いの記録であった。
- 「TOSHI」: 栄光と、魂を搾取され続けた、捨てるべき過去の象徴。
- 「Toshl」: 過去と決別し、一人の音楽家として、人間として「1」から再出発を誓った、解放と防衛の名。
- 「龍玄とし」: 音楽の枠を超え、苦悩さえも創造の源泉に変え、全ての自分を肯定する、未来志向の芸術家としての魂の名。
一つの文字を変更し、新たな名を持つ。その行為が、これほどまでに重い意味を持つことがあるだろうか。
Toshlの名の変遷は、人がいかにして他者によって自己を奪われ、そして、いかにして自らの意志で自己を取り戻すことができるか、という普遍的な問いを我々に投げかける。
彼がマイクを握り、あの唯一無二のハイトーンボイスを響かせるとき。あるいは、筆を執り、力強い龍を描くとき。その姿は、単なるアーティストの表現活動ではない。
それは、名前という自己の核を取り戻した一人の人間が、その人生をもって奏でる、力強い再生の物語そのものなのである。

「名前を変えるって、ただの気分転換じゃなくて、自分の人生を取り戻すための、必死の戦いだったんだブー…。Toshlさんの歌声が、前よりもっと心に響く理由が、なんだか分かった気がするんだブー…」



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