いま密かに注目を集めているテレビ番組『森香澄の全部嘘テレビ』(テレビ朝日、水曜深夜2:17 – 2:36)。タイトルだけを見ると、「またフェイク番組か?」「モキュメンタリー風かな?」と身構えるが、実際の放送内容は普通にバラエティとして成立している。では、一体どこが“嘘”なのか?本当に「全部」嘘なのか?

「タイトルが煽ってくるブー! でも中身は意外とまじめで普通に笑えるブー!」
番組を実際に見てみると、その“嘘”とは、内容の虚構というより、テレビというメディアそのものが持つ「予定調和感」「演出のご都合主義」「検証っぽいノリ」などを逆手に取った、メタ的な皮肉であることがわかってくる。
■ 嘘と免罪符
「全部嘘」と宣言することで、番組は強力な“保険”を手に入れる。
- 滑ってもOK
- 本音っぽいけど建前でもOK
- スベリ芸もドヤ顔もすべて「演出」で片付く
これは、今の視聴者が「テレビって全部本当じゃないよね」と心のどこかで思っている“冷めた視点”を、番組側が先に回収してしまう構造だ。
■ 本音に見える嘘、嘘に見える本音
特筆すべきは、森香澄という進行役の存在だ。彼女の“本音か演技か分からない”独特の間とテンションが、番組全体を「これはネタなのか?ガチなのか?」という揺らぎの空気で包み込む。

「森アナ、たまに本当に楽しそうなときがあるブー! …あれも演技なのかブー?」
嘘を軸に構成された番組の中で、逆に浮かび上がる“素”のリアクション。この反転構造が、視聴者の知的好奇心と観察眼を刺激してくるのだ。
■ 「全部嘘」は、テレビの逆説的な信頼契約
本当に全部が嘘なら、視聴者は離れる。だが、嘘と知って観ているのに、なぜか楽しい。
それは「嘘という前提」があるからこそ、“ちょっと本当”が輝くからだ。
- 嘘の中にある一瞬の真実
- 演出の奥にある人間らしさ
- 出演者の“計算外”の表情
これらが混ざり合うと、かえって「この番組、信頼できる」と思ってしまう。
不思議な構造である。

「嘘で信頼されるなんて、哲学的ブー。でもちょっとワカル気もするブー!」
■ 終わりに:すべては嘘、だけど観ちゃう
『全部嘘テレビ』という言葉には、
- コンテンツ制作における自由
- 自虐と開き直りによる余白
- 現代人のメディアリテラシーを逆手に取る知的遊戯
といった意味合いが含まれている。
そしてその中心に立つのが、森香澄という「テレビっぽさ」と「不思議なリアルさ」を併せ持つ進行役。すべては嘘かもしれない。でも、観てしまう。
それが令和のテレビの新たな魅力なのかもしれない。

「ウソって、奥が深いブー。あなどれないブー!」
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