8月5日、夏の甲子園が開幕した。
高校球児にとって「甲子園」は、血と汗と青春を捧げた努力のゴールであり、
全国民が“無垢なドラマ”として愛する、日本の風物詩でもある。
しかしその美しさの裏で、
いま、甲子園の価値そのものが問われている。
広陵高校──
甲子園の常連校として知られるこの強豪校で、
凄惨な“暴行事件”が起きていたのだ。
【第1章】暴行事件の中身──“1年生の部屋を訪れた4人の先輩たち”
事件が発覚したのは、2025年1月22日(令和7年)。
舞台は、広陵高校の野球部寄宿舎「清風寮」だった。
加害生徒は当時2年生の部員4名。
彼らは個別に1年生の部屋を訪れ、
- 胸を叩く
- 頬を叩く
- 腹部を押す
- 胸ぐらをつかむ
という暴力行為を行ったとされている。
さらに、SNS上では「舐めろ」などの性的・屈辱的な強要があったとの情報も流れており、
被害生徒は3月末で転校を余儀なくされた。

「夢の舞台から、ひとりの球児が消えたブー…」
【第2章】高野連の処分は「厳重注意」──なぜここまで軽いのか?
この暴行事件を受け、
高野連が下した処分は──
- 野球部全体への「厳重注意」
- 加害生徒への「1ヶ月以内の公式戦出場停止」
たったそれだけだった。
SNS上では、「便器・性器を舐めさせた」などの証言が飛び交うなか、
学校側は「新たな事実は確認できなかった」と表明。
高野連も「出場辞退の必要はない」として、広陵高校の甲子園出場を認めている。
だが、被害生徒は去り、加害生徒は甲子園に立つ。
この“構造”に、多くの人々が違和感を覚えているのだ。
【第3章】なぜ“事実”が曖昧になっていくのか──マイルドな言語と表現のバイアス
広陵高校の説明文では、事件の中身を以下のように表現している。
《胸を叩く》《頬を叩く》《腹部を押す》《胸ぐらをつかむ》
この言葉選びは、法的に「暴行」となる行為を、
あえて“柔らかく”見せるためのマイルドワードではないか?
また、学校側は「被害者・加害者の保護」の名のもと、
事件の公表を控え続けてきた。
結果として、“処分されたこと”だけが表面化し、
どれだけの生徒がどんな苦しみを受けたのかが、見えなくなっている。
【第4章】暴力と「甲子園出場」の両立は、本当に正しいのか?
これは単なる部内のトラブルではない。
全国の目が注がれる舞台に立つ以上、
その権利を持つ学校や生徒には、公正さ・透明性が求められる。
ましてや、広陵は甲子園の“顔”のような存在だ。
それでも、「出場辞退の必要はない」という判断が下されたのはなぜか。
理由はいくつか考えられるが、
そのいずれにも被害者の尊厳を優先した形跡はない。
【第5章】高校野球は「教育」か「興行」か──永遠の問いが、また浮上した
高校野球は、スポーツであり、教育であり、興行でもある。
だからこそ常に、その境界が問われる。
今回の件は、
- 「被害者の訴え」と
- 「学校・高野連の説明」と
- 「世間の目」
この三者がズレたまま大会が進んでいるという、きわめて異常な状態だ。
【終章】誰が甲子園を“聖地”にするのか
高校野球の本質とは何か。
勝つことか。努力することか。
あるいは、他人に夢を与えることか。
ひとつだけ言えるのは、
“暴力があった学校が、説明も納得感もないまま全国の舞台に立つ”という構造は、
未来の球児にとってまったく美しくないということだ。

「夢の舞台を、暴力と矛盾で濁らせちゃダメだブー…」
甲子園は“夢の象徴”であってほしい。
だからこそ、今こそ問い直すべきだ。
その夢に、誰が立つべきなのかを。
【2025年8月7日の1回戦】試合結果
なお、第107回全国高校野球選手権大会 第3日 にて、
広陵高校は旭川志峯高校(北北海道代表)に3-1で勝利し、2回戦に進出した。
本記事で取り上げた暴行事案をめぐる説明や議論は、
今も進行中であり、試合結果とは切り離して考えるべき問題として、
引き続き注視していく必要があるだろう。

「試合は進んでも、“問題の整理”はまだ続くブー…」
コメント