予見か?偶然か?──
2015年に発表されたゲスの極み乙女。『ロマンスがありあまる』。
その半年後、ボーカル・川谷絵音は、自らの“ありあまるロマンス”で世間を騒がせることになる。
この曲は、彼自身の未来を暗示していたのか?
それとも──もっと普遍的な、生きる者すべてへのメッセージだったのか?
いま、改めてこの楽曲を紐解く。
第1章:ロマンス=生の過剰
歌詞の中で「ロマンス」と呼ばれるもの。
それは、単なる恋ではない。
もっと広義の、もっと根源的なもの──
- 理想を追うこと
- 自分を演出してしまうこと
- 背伸びして疲れること
- 誰にも理解されない孤独
- それでも死に物狂いで生き急ぐこと
ロマンスがありあまる
このフレーズが繰り返されるたびに感じるのは、
コントロール不能な情熱の痛みだ。
そしてそれは、若さの特権でもあり、
生きることそのものの宿命でもある。
第2章:「ありあまる」ことの怖さ
贅沢に怯えていたんだ
歌詞の中で、情熱は持て余される。
本来なら祝福されるべき生命力が、
やがて自分自身を脅かし、壊してしまうものにもなる。
川谷は、まさにその過剰を生きた。
そして、破綻した。
それは不注意でも、予見でもない。
ありあまるものを抱えた人間が、避けられない軌跡だった。

「情熱って、持ちすぎると怖いけど、それでも生きてる証なんだブー…」
第3章:破綻しても、なお美しい
棘を取った優しさなんてものより
ずっとずっと美しいんだ
整えられた感情よりも、
角張っていて、不器用で、壊れかけたものが美しい。
この価値観は、川谷の、ゲスの極み乙女。の、そしてこの歌のコアだ。
破滅を怖れながら、
それでも破滅を受け入れる。
そんな矛盾した生き方が、ここでは肯定されている。
そしてこの矛盾は、私たちにも突き刺さる。
生き急ぎ、持て余し、傷付きながらも、それでも生きるしかない──
その真実を、見つめさせられるのだ。
終章:問いかけ──ありあまるものを、どうする?
罪でもあり、祝福でもあった。
生きていれば、ありあまるものが生まれる。
情熱も、欲望も、夢も、愛も。
それらを持て余してしまうこともあるだろう。
破綻してしまうことも、あるだろう。
でも、それを怖れて、抑え込んで、
安全な場所に引きこもってしまったら、
私たちは、本当に生きていると言えるのか?
『ロマンスがありあまる』は、こう問いかけている。
──ありあまれ。破滅を怖れるな。
それが、生きるということだ。

「いやいや…どんな結論だブー!予見とかもう関係ないブー!ありあまって生きろだブー!」
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