2024年2月、福岡県みやま市の小学校で、小学1年の男児が給食中にウズラの卵を喉に詰まらせて死亡するという痛ましい事故が起きた。
父親は市に6000万円の損害賠償を求め提訴し、初弁論では「なぜ息子は死ななければならなかったのか」と涙ながらに訴えた。
学校側の対応、食材の選定、救命措置、そして“注意のひとこと”の有無──
本件は、単なる不幸な事故では済まされない「学校と命の責任」をめぐる重大な問いを社会に突きつけている。
第1章:それは“みそおでん”に入っていた
事故が起きたのは、給食で提供された「みそおでん」。その中に含まれていたウズラの卵が、男児の気道を塞いだ。
わずか1年生。発見が遅れ、救命措置も間に合わなかった。
“たったひとくち”が命取りに。
父親は初弁論で、授業参観で元気に歌う我が子の姿を振り返りながら、こう訴えた。
「担任の先生がひと言注意してくれていたら、息子はしっかりかんで食べていたと思います」
「学校はなぜ息子を守れなかったのか。責任を明らかにしてほしい」
第2章:ウズラの卵に“責任”はあるのか?
事故の直接的原因はウズラの卵の窒息。
ウズラの卵は以下のような特徴を持つ。
- 球状でツルっとしている
- 一口サイズで飲み込みやすい
- 噛まずに口に入れやすい
つまり、子どもや高齢者にとっては意外と危険な食材なのである。
■ 類似する事例も存在
保育園・高齢者施設・特別支援学校などでは、すでに提供を控える方針を採っている自治体もある。
ウズラの卵=安全な食材
…という認識は、実は過去の常識だったのかもしれない。
第3章:「よく噛んで食べましょう」は誰の仕事?
父親は「ひと言、担任が注意してくれていれば」と語った。
では、「よく噛んで食べよう」「丸呑みしないで」という声かけは誰の責任なのか?
- 家庭のしつけ?
- 教師の安全指導?
- 給食調理の段階?
これは「命を守る責任」が、家庭・学校・行政のどこにどこまで分配されるべきかを問い直す議論である。
教室という“集団生活の場”で、個々の咀嚼まで管理することが可能なのか?
教育現場の現実と限界が浮かび上がる。
第4章:救命措置は間に合わなかったのか?
もうひとつの大きな論点が「対応の遅れ」だ。
事故後、みやま市の教育委員会は次の再発防止策を発表した。
- 全教室に119番通報が可能なシステムを設置(来年度までに)
- 教職員の救命講習を3年に1回 → 毎年へ見直し
これらは、裏を返せば…
「従来の体制では、即座に助けられないケースがあった」
ことを自ら認める内容でもある。
救命措置に構造的な遅れがあったとすれば、市や教育委員会の責任が問われるのは当然だろう。
第5章:「学校の責任」とは何か
みやま市側は請求棄却を求め、争う姿勢を見せている。
そのコメントは以下の通り。
「給食提供における注意・指導の範囲、事故発生時の対応などについては、司法の判断を仰ぎたい」
つまり、「学校がそこまで背負うべき責任ではない」という立場だ。
- 給食の食材リスクをどこまで予見すべきか
- 食べ方まで教師が監視・指導すべきなのか
- 救命措置が構造的限界の中で行われた場合、責任は問えるのか
この事件は、教育現場の責任範囲と「想定力の限界」が問われる裁判でもある。

「「ウズラの卵が悪い」と言ってしまえば簡単ブー。でも、問題は“その先”なんだブー。
学校で出す食事がどれほど安全なのか、何をどこまで注意すべきか──
子どもを預かる場所だからこそ、“教訓にする責任”が大人たちにはあるブーね…。」
おわりに:「ひとくち」の悲劇が、次を守る“声かけ”になるように
この裁判は、単なる損害賠償請求ではない。
それは、
- 食育と安全管理のあり方、
- 教育現場の想定力、
- そして大人たちの“想像力”と“分担意識”
──そのすべてが問われる、「現代社会の縮図」だ。
失われた命は戻らない。
けれど、その死が未来の子どもたちを守る教訓になるとしたら、
少しでも、この事故には意味があったと言えるかもしれない。



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