大相撲の土俵。そこには二人の力士が対峙している。番付表を見れば彼らは必ず「東」と「西」のいずれかに所属している。
しかし冷静に考えれば不思議なことだ。
なぜボクシングのような「赤青コーナー」でもなく、あるいは単純に「南北」でもなく、相撲の世界では「東」と「西」という方角で分けられるのだろうか。
本稿は、この日本の国技に深く根付いた独特の慣習の謎を、その起源とされる三つの有力な歴史的仮説から解き-明かすレポートである。
第一章:【説①】出身地で分けていた“江戸時代の名残”説
最も有力とされるのが、江戸時代中期の興行形態にその起源を求める説である。

- 近江国(滋賀県)が“境界線”だった
- 当時の相撲興行では力士の出身地によって、その所属を東西に振り分けていた。
- その境界線となったのが現在の滋賀県にあたる「近江国」であった。
- 東方力士: 近江国よりも東の出身者(関東、東北、甲信越など)
- 西方力士: 近江国よりも西の出身者(関西、中国、四国、九州など)
- なぜ立ち消えになったのか
- しかしこの方式には一つの大きな問題があった。当時から力士の出身地には地域的な偏りがあり、東西の戦力バランスを均等に保つことが困難だったのである。
- その結果、出身地で分けるというルールそのものは徐々に形骸化していった。しかし番付を「東」と「西」に分けるという習慣だけが残り、現在に至るという説である。

「へぇー!昔は出身地で分けてたんだブーか!滋賀県がちょうど真ん中だったんだブーね!でもそれだと強い人が片方に集まっちゃったりして不公平だったんだブーか!面白いんだブー!」
第二章:【説②】天下分け目の“関ヶ原の合戦”に由来する説
次に日本の歴史上最も有名な合戦に、その起源を求めるロマンあふれる説である。

1600年に起きた関ヶ原の合戦。
徳川家康が率いる連合軍は「東軍」、そして石田三成・毛利輝元が率いる連合軍は「西軍」と呼ばれた。
この天下分け目の戦いの構図を後に相撲の興行に取り入れ、力士たちを「東軍」「西軍」として戦わせたのが始まりではないかという説だ。
第三章:【説③】天皇陛下がご覧になる“天覧相撲”の作法に由来する説
そして最後に、相撲が神事であり天皇に奉納する儀式であったという、その最も古い歴史に根差した説である。

- 天皇の“絶対的な視点”
- 古来、天覧相撲において天皇陛下が座る「玉座」の位置は厳格に定められていた。
- 天皇は必ず北に背を向け南を向いて観戦する。これは古代中国の思想に基づく、最も尊いとされる方角の作法である。
- 東から昇り西に沈む
- この天皇の視点を基準にすると、
- 向かって左側(東)から登場する力士が「東方」
- 向かって右側(西)から登場する力士が「西方」
- ということになる。太陽が東から昇り西に沈むように、神聖な儀式の始まりと終わりを方角で示したこの伝統が今日まで受け継がれているという説だ。
- この天皇の視点を基準にすると、

「なるほどだブー!お殿様(天皇)から見て左が『東』で右が『西』だったんだブーね!太陽の動きとも関係してるなんて、すごく神聖な感じがするんだブー!この説が一番カッコいいんだブー!」
終章:歴史のロマンが宿る、土俵の上の“東西”
結論として力士が東西に分かれる明確な理由は一つに特定されてはいない。
しかしそのいずれの説も、
- 江戸時代の興行の知恵
- 戦国時代の天下分け目の記憶
- そして古代からの神事としての作法
といった日本の豊かな歴史の断片を、その背景に持っている。
単なるチーム分けではない。
土俵の上に引かれたその見えない境界線には、我々の国の長い長い時間の記憶が確かに宿っているのかもしれない。



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