垂れ下がった鼻、たるんだ口元、そしてどこか全てを諦めたような憂いを帯びた目。ニュウドウカジカ(通称:ブロブフィッシュ)の、その一度見たら忘れられない「おじさん顔」は、インターネットミームの格好の的となり、ついには「世界で最も醜い生き物」という、不名誉ながらも愛すべき称号を手にすることとなった。
しかし、もし我々が知るこのブヨブヨとした姿が、彼らの本当の姿ではなかったとしたら。そして、そのあまりにも悲しげな表情が、ある過酷な“事故”によって引き起こされた後天的なものだったとしたら。
本稿は、この深海の奇妙な隣人の知られざる「本来の姿」と、なぜ彼らが陸に揚げられると、あの独特の“おじさん顔”へと変貌してしまうのか。そのあまりにも悲しい科学的理由を解き明かすレポートである。
第一章:深海での「本来の姿」──それは、“おじさん”ではなかった
我々が写真や映像で目にする、あのたるんだ姿。それはニュウドウカジカが水深数百メートルという過酷な環境から、急激に引き揚げられた後の、いわば“事故現場”の姿である。
では、彼らの本来の姿はどのようなものなのか。

- 水圧に守られた本来のフォルム
- 彼らが生息するのは太平洋やインド洋の水深600メートルから1200メートルといった、凄まじい水圧のかかる深海である。
- その環境下ではニュウドウカジカの体は周囲の水圧によって内側から均等に支えられている。そのためその姿は我々が知る崩れた姿とは全く異なり、頭の大きなオタマジャクシのような、比較的一般的な魚に近い流線型のフォルムを保っている。

「ええーっ!?あの、ブヨブヨのおじさん顔は、本当の姿じゃなかったんだブー!?本当は、普通の、お魚みたいな形をしてたんだブーか!衝撃の事実なんだブー…!」
第二章:なぜ“崩れる”のか?──浮力と水圧、極限環境への、驚異的な適応
では、なぜ彼らは陸に揚げられると、あれほどまでに無残に崩れてしまうのか。その理由は、深海の超高圧環境に適応するために彼らが手に入れた、特殊な体の構造にあった。

- 浮袋(うきぶくろ)を“捨てた”魚
- 多くの魚は体内に「浮袋」というガスが詰まった袋を持ち、そのガスの量を調整することで水中での浮き沈みをコントロールしている。
- しかしニュウドウカジカが生息するような超高圧の環境では、ガスが詰まった浮袋は水圧によって簡単に押し潰されてしまい機能しない。
- そのためニュウドウカジカは浮袋を持つことを進化の過程で“捨てた”のである。
- ゼリー状の体という究極の“ライフジャケット”
- ではどうやって浮力を得ているのか。
- 彼らの体は我々が知るような硬い筋肉はほとんどなく、その代わりに水よりもわずかに密度の低いゼラチン状の物質で満たされている。
- このゼリーのような体が、いわば体全体が「ライフジャケット」のような役割を果たし、深海でほとんどエネルギーを使うことなく中層に漂うことを可能にしているのだ。
- “減圧症”という悲劇
- しかし、この極限環境への完璧な適応こそが彼らの悲劇の始まりとなる。
- 底引き網などにかかり水圧の低い海上へと急激に引き揚げられると、彼らの体は急激な減圧に晒される。
- 体を支えていた圧倒的な水圧が失われ、そしてゼリー状の柔らかい組織は気圧の変化によって膨張する。硬い骨格や筋肉を持たない彼らの体は、自らの重さを支えきれなくなり、あのブヨブヨとした“おじさん顔”へと崩れ落ちてしまうのだ。
- これはダイバーが急浮上した際に発症する「減圧症(潜水病)」と同じ原理であり、彼らにとって極めて苦痛を伴う致命的な状態なのである。
ニュウドウカジカが“崩れる”までの、悲しいプロセス
- 深海への適応: 超高圧で潰れてしまう「浮袋」を進化の過程で捨てた。
- 代替案: 浮袋の代わりに、水よりわずかに軽い「ゼリー状の体」を持つことで、省エネで深海を漂う能力を獲得。
- 悲劇の発生: しかし、この柔らかい体が、水圧の低い地上に急激に引き揚げられると、体を支えるものがなくなり、自らの重さで崩れてしまう(=減圧症)。
第三章:「世界で最も醜い」― 不名誉な称号の、誕生秘話
このあまりにも悲しい「事故後の姿」は、いかにして世界的なアイコンとなったのか。

- イギリスの「醜い動物保存協会」
- 2013年、イギリスの「醜い動物保存協会(Ugly Animal Preservation Society)」が、絶滅の危機に瀕している見た目が“醜い”動物たちへの関心を高める目的で、団体の公式マスコットを決めるオンライン投票を行った。
- “ミスター・ブロビー”の圧勝
- この投票で他の候補を圧倒的な差で引き離し、見事(?)、一位に輝いたのが、2003年にニュージーランド沖で捕獲された一体のニュウドウカジカの写真だった。
- 「ミスター・ブロビー(Mr. Blobby)」と名付けられたこの個体の、あまりにも憂いに満ちた表情が世界中の人々の心を掴み、ニュウドウカジカは公式に「世界で最も醜い生き物」という称号を手にすることとなったのだ。

「そんな悲しい経緯で、『世界で最も醜い』なんて言われちゃってたんだブーか…。なんだか、申し訳ない気持ちになってきたんだブー…。ごめんよ、ミスター・ブロビー…。」
終章:その“醜さ”は、我々が、作り出した、幻影
結論として、我々が愛しそして少し嘲笑してきた、ニュウドウカジカのあの“おじさん顔”は、彼らの本来の姿では決してなかった。
それは深海という故郷から無理やり引き剥がされた一個の生命が、我々の世界の気圧の中で崩壊していく、そのあまりにも痛々しい断末魔の姿だったのである。
その醜さとされる姿は、彼らが自ら選んだものではない。
それは我々人間が引き起こした事故の結果なのだ。
この少しもの悲しい事実を知る時、我々はもはや彼の顔を見てただ無邪気に笑うことはできないかもしれない。
そしてそれは、我々が一つの生命の本当の姿を理解するための第一歩となるのかもしれない。



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