フィンセント・ファン・ゴッホ。その名を知らない者はいないだろう。『ひまわり』や『星月夜』といった彼の作品は、今や数十億、数百億円という天文学的な価格で取引される人類の至宝である。
しかしこのあまりにも有名なエピソードをご存知だろうか。
「ゴッホは、その生涯でたった一枚しか絵が売れなかった」
という衝撃的な伝説を。
なぜこれほどの天才が生前全く評価されなかったのか。そしてそのたった一枚の絵とは、一体どのような作品だったのか。
本稿は、この美術史における最も有名で、そして最も悲劇的な物語の真相に迫るレポートである。
第一章:37年の短く、燃え盛るような人生
ゴッホの芸術家としての人生は、あまりにも短くそして濃密であった。

- 1853年、オランダに生まれる
- 牧師の家庭に生まれ、画商の店員や教師、聖職者などを転々とするもいずれも長続きせず。彼が本格的に画家への道を志したのは27歳という、遅咲きのスタートだった。
- 10年間で2100点という驚異的な創作意欲
- 1890年に37歳の若さで自らの命を絶つまでの、わずか10年余りの間に彼は驚異的なペースで作品を生み出し続けた。
- 油彩画:約860点
- 水彩画:約150点
- 素描(デッサン):約1030点
- 版画・スケッチなど
- その総数は実に2100点以上にのぼる。一日一枚以上のペースで創作を続けていた計算になる。
- 1890年に37歳の若さで自らの命を絶つまでの、わずか10年余りの間に彼は驚異的なペースで作品を生み出し続けた。
第二章:たった一枚の売れた絵──『赤い葡萄畑』
しかしその燃えるような創作意欲とは裏腹に、彼の絵は生前全くと言っていいほど売れなかった。
公式な販売記録として確認されているのは、死のわずか数ヶ月前に売れたたった一枚の絵画だけである。

- 作品名:『赤い葡萄畑』
- 1888年に南フランスのアルルで描かれたこの作品。燃えるような夕日に照らされたぶどう畑で、農民たちが収穫作業にいそしむ光景が描かれている。
- 購入者とその価格
- この絵は1890年にブリュッセルで開かれた前衛芸術家のグループ展に出品された。
- そしてその場でベルギーの女性画家であり詩人でもあったアンナ・ボックという人物によって購入された。
- その販売価格は400フラン。当時の貨幣価値を現代の日本円に換算すると、およそ10万円から20万円程度であったと言われている。
- 今もしこの絵がオークションに出品されれば、その価格は100億円を下らないだろう。

「ええーっ!?あのゴッホの絵がたったの10万円くらいでしか売れなかったんだブーか!?しかも生涯でたったの一枚だけなんて…。あまりにも悲しすぎるんだブー…。買ったアンナさんっていう人は、すごい慧眼の持ち主だったんだブーね!」
第三章:なぜ彼は評価されなかったのか
なぜこれほどの才能が、同時代の人々には全く理解されなかったのか。

- 時代を先取りしすぎた画風
- ゴッホのあの厚塗りでうねるような筆致と、感情を爆発させたような強烈な色彩。それは当時のアカデミックな美術界の常識からは、あまりにもかけ離れていた。
- 弟・テオという唯一の理解者
- 彼の生活と創作活動を経済的、精神的に支え続けたのが4歳年下の弟テオドルス・ファン・ゴッホ(通称:テオ)であった。
- 画商であったテオは兄の才能を誰よりも信じ、生涯にわたり仕送りを続け、そしてその膨大な作品を大切に保管し続けた。もしテオの献身的なサポートがなければ、我々はゴッホの傑作のほとんどを目にすることはできなかっただろう。

「うう…。弟のテオさんがいなかったらゴッホは絵を描くことすらできなかったんだブーか…。たった一人の理解者が弟だったなんて…。なんて美しい兄弟愛なんだブー…。泣けてくるんだブー…。」
終章:死後に始まった本当の“神話”
ゴッホの絵画の価値が爆発的に高騰したのは、皮肉にも彼の死後のことだった。
ゴッホの死のわずか半年後、彼の唯一の理解者であった弟テオもまた後を追うようにこの世を去る。
残されたのはテオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルと、ゴッホが遺した膨大な未発表の作品群であった。
彼女は夫の遺志を継ぎゴッホの作品を世界に広めるため尽力する。
回顧展を開催し、そしてゴッホとテオが交わした膨大な量の手紙を出版する。
この伝記的な物語がゴッホのドラマチックな生涯とその情熱的な作品と結びついた時、フィンセント・ファン・ゴッホという「不遇の天才画家」の“神話”は完成した。
生前報われることのなかったその魂は今、美術史の中で最も明るく、そして最も情熱的に燃え盛る星の一つとして、永遠の輝きを放っている。



コメント