夜の森を音もなく滑空し、木から木へと飛び移るムササビ。
「空飛ぶ座布団」とも形容されるその愛らしい姿は、鳥類のように生まれながらにして空を支配しているように見える。
しかし、動物行動学の視点で見ると、彼らは鳥とは決定的に異なる。鳥が翼を羽ばたかせて飛ぶ能力を本能的に持っているのに対し、ムササビの滑空は「後天的なトレーニングのたまもの」なのだ。
彼らは最初から飛べるわけではない。恐怖に震えながら木に登り、落下し、母親に連れ戻されながら、生き残るための技術を体に叩き込んでいく。
本稿は、ムササビの親子が繰り広げる知られざる「飛行訓練」の実態と、滑空技術習得のプロセスを解き明かすレポートである。
第一章:本能だけでは飛べない──哺乳類の限界
まず理解すべきは、ムササビはあくまで「リスの仲間(哺乳類)」であるという点だ。
彼らは動力飛行(羽ばたき)ができず、高い場所から低い場所へ移動する「滑空(グライディング)」しかできない。

- 100メートルを超える飛距離
- 成獣のムササビは、飛膜(ひまく)と呼ばれる皮膚の膜を広げることで、最大100メートル以上も滑空することができる。
- しかし、この能力は身体的な機能(ハードウェア)があるだけでは発揮できない。風を読み、姿勢を制御する技術(ソフトウェア)が必須となる。
- 最初は飛べない
- 魚が泳ぎ方を知っているのとは異なり、ムササビの子どもは最初、飛膜の使い方を知らない。高い木の上から虚空へ身を投げる行為は、本能的な恐怖の対象でしかないのだ。

「ええーっ!生まれつき飛べるわけじゃなかったんだブー!?高いところから飛び降りるなんて、人間でもバンジージャンプ並みに怖いブー!」
第二章:母のスパルタ教育──「落ちたらやり直し」の掟
4月から5月にかけて生まれた1、2頭の子どもたちは、約1ヶ月の授乳期間を終えると、いよいよ運命の時を迎える。
そこにあるのは、甘えの許されない厳しい訓練の日々だ。

- 恐怖との戦い
- 訓練初日、子どもは木の上で恐怖心から尻込みし、飛ぶことを嫌がるそぶりを見せる。
- それに対し、母親はまず自らが飛んでみせ、「こうやるのよ」と手本を示す。そして子どもに続くよう促すのである。
- 強制リトライ
- 当然、最初からうまくはいかない。子どもはバランスを崩し、木の枝から落下してしまう。
- ここからがムササビの母性の凄まじいところだ。母親は地面に落ちた子どものもとへ降りると、再び木の上(元の位置)へと連れ戻し、再チャレンジを強要するという。
- 「飛べるようになるまで終わらない」。この反復練習こそが、彼らが森で生き残るための唯一の道なのだ。

「落ちてもまた連れて行かれるなんて、鬼コーチだブー!でも、飛ばなきゃ死んじゃう世界だから、心を鬼にしてるんだブーね…。」
第三章:高度な技術習得──ブレーキングと方向転換
ただ落ちるだけでは滑空とは言えない。訓練は段階を経て、より高度な航空力学の習得へと進んでいく。

- ステップアップの過程
- 直進飛行: まずは短距離をまっすぐ飛ぶ練習から始まる。
- 距離の延長: 徐々に高度と距離を伸ばし、滞空時間を稼ぐ。
- 姿勢制御: 最終段階では、飛膜や尻尾を使って空気抵抗を操り、「ブレーキング(減速して着地)」や「方向転換(障害物回避)」といった高等テクニックを学ぶ。
- 独り立ちへの道
- ある程度飛べるようになると、子どもは母親の手を離れ、独りで黙々と練習を繰り返すようになる。
- 夜の森で繰り返されるこの単独飛行こそが、彼らが親から自立し、一人前の「空の忍者」へと成長した証なのである。
終章:生き残るための教育
結論として、ムササビの飛行能力は、魔法でも本能の自動発動でもなく、「恐怖を克服した反復練習」の結果であった。
もし飛べなければ、天敵に襲われるか、餌場への移動ができずに死んでしまう。
母親が心を鬼にして子どもを木の上に連れ戻すのは、厳しい自然界で生き抜くための力を授ける、究極の愛情表現と言えるだろう。
夜空を優雅に舞うムササビの姿。
その背景には、幼き日の落下と再挑戦、そして母と子の血の滲むようなトレーニングの物語が隠されているのである。


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