ソウルの街を歩けば、看板も標識もスマホの画面も、すべてがハングル(韓国固有の文字)で埋め尽くされている。韓国は戦後、漢字廃止政策を進め、日常生活から漢字をほぼ一掃することに成功した国だ。
しかし、不思議なことに「人の名前」だけは例外である。
多くの韓国人は、普段はハングルで生活しながらも、自分の名前にはしっかりと「漢字(ハンチャ)」を持っており、それを書くことができる。
なぜ、名前だけは漢字を捨てなかったのか。
その理由は、単なる伝統への固執ではない。「ハングルだけでは、自分が何者かを証明できない」という、言語構造上の制約と、韓国特有の血縁文化が密接に関わっていた。
本稿は、韓国人の名前に隠された漢字の役割と、それが現代社会でどのように機能しているかを解き明かすレポートである。
第一章:ハングルは「ひらがな」である──同音異義語の限界
まず理解すべきは、ハングルという文字の性質だ。ハングルはアルファベットと同じ「表音文字(音を表す記号)」である。日本で言えば「ひらがな」に近い。

- 音が同じなら区別がつかない
- たとえば、日本人が「ひろし」とひらがなで書いた場合、それが「浩」なのか「博」なのか、あるいは「寛」なのか、文字を見ただけでは全く分からない。
- 韓国でも同じ現象が起きる。よくある名前の音である「ジョン(정)」には、「正」「政」「情」「静」など、無数の漢字が当てはまる。
- ハングル表記の「ジョン」だけでは、それは単なる音声記号に過ぎず、名前に込められた意味が消滅してしまうのだ。
- 数万人いる「キム・ミンス」問題
- 韓国で非常に多い名前「ミンス(민수)」の場合、「民洙」「敏秀」「珉洙」など数十通りの組み合わせが存在する。
- 漢字表記がなければ、これらは全て同じ「ミンス」として処理されてしまい、個人の識別が極めて困難になる。これが、漢字を手放せない物理的な理由の一つである。

「ええっ!ハングルって『ひらがな』みたいなもんだったんだブー!?意味がなくて音だけなら、確かに誰が誰だか分からなくなっちゃうブー!」
第二章:一族の証明──「族譜」と「行列字」のルール
二つ目の理由は、韓国に根強く残る儒教的伝統と「家系」へのこだわりだ。

- 行列字(トルリムジャ)
- 韓国の伝統的な一族には、「行列字」という命名ルールが存在する。
- これは「35代目の子供には、名前のどこかに必ず『東』という字を入れなさい」といった世代ごとの決まり事だ。
- 親戚一同がこのルールに従うことで、初対面でも名前(漢字)を見れば「あ、君は私より一つ下の世代だね」と、一族の中での立ち位置が即座に分かるシステムになっている。
- ハングルは「ルビ」に過ぎない
- この血脈の管理は、意味を持つ「漢字」でなければ成立しない。
- 彼らにとって、戸籍上の名前の「本体」はあくまで漢字であり、ハングルはその「読み方(ルビ)」であるという感覚が、特に年配層や伝統的な家庭では色濃く残っている。

「名前を見ただけで家系図のどこにいるか分かるなんて、バーコードみたいだブー!漢字は『一族のID』だったんだブーね。」
第三章:現在も生きる「公式な漢字」
では、現代社会で実際に漢字を使う場面はあるのか。日常生活ではほぼ使わないが、「公式・公的」な場面では必須アイテムとして機能している。

- 住民登録証(身分証明書)
- 韓国の大人が全員所持する「住民登録証」。ここには、ハングルの氏名の横に、必ず(カッコ書きで漢字名)が併記されている。(例:홍길동(洪吉童))
- これは国が「個人を特定するためには漢字が必要だ」と認めている証左である。
- 法的書類とニュース
- 戸籍(家族関係登録簿)や契約書など、同姓同名の別人と間違えられては困る書類では、漢字表記が求められることが多い。
- また、新聞の見出しなどで大統領や政治家を指す際、「文(ムン)」「尹(ユン)」のように、漢字一文字で略称として使う慣習も定着している。
補章:変化するトレンド──「純韓国語」の名前
一方で、時代の変化も見逃せない。近年は漢字の縛りをあえて捨て、最初から漢字を持たない名前をつける親も増えている。

- 純韓国語(固有語)の名前
- ハヌル(空)、スルギ(知恵)、イスル(露)など。
- これらは漢字を当て字にせず、ハングルの響きと意味そのものを名前とする新しいスタイルだ。しかし、依然として多くの家庭、特に男児においては、家系を重んじて漢字名を付けるケースが主流である。
終章:ハングルは「音」、漢字は「魂」
結論として、韓国人の名前に漢字があるのは、単なる飾りではない。
それは、同音異義語だらけの言語社会で「個人の意味(アイデンティティ)」を確定させるためのIDであり、数百年続く「一族の歴史(血脈)」に接続するためのパスワードなのである。
街中から漢字が消えても、彼らの身分証の中に漢字が残り続ける限り、韓国は依然として「隠れ漢字文化圏」であり続けるだろう。



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