5月に入り、生花店やデパートの店頭が赤いカーネーションで埋め尽くされる季節。5月の第2日曜日は「母の日」である。
母親に日頃の感謝を伝え、プレゼントを贈る温かいイベントとして世界中で定着しているこの日だが、その起源が「一人の女性による亡き母への追悼」であったことは意外に知られていない。
さらには、この美しい記念日を作り上げた創設者自身が、後年になって母の日の「廃止」を訴え、激しい抗議活動を行っていたという残酷な歴史が存在する。
本稿は、カーネーションの色に隠された意味の変遷と、個人の純粋な祈りが巨大なビジネスへと飲み込まれていった歴史的パラドックスを解き明かすレポートである。
第一章:すべての始まりは「白い追悼」
現在、母の日は「感謝のプレゼントを贈る日」として広く認知されているが、その発祥は決して華やかなお祝いではなかった。

- アン・ジャービスの祈り
- 母の日の起源は、1900年代初頭のアメリカに遡る。発案者であるアン・ジャービスの母親は、南北戦争の負傷兵のケアや公衆衛生の改善に尽力した社会活動家であった。
- アンは、母の死から3年後の1908年5月、母が日曜学校の教師を務めていた教会で追悼式を行った。その際、参列者に配られたのが、母が愛した「白いカーネーション」であった。これが、歴史上最初の「母の日」の儀式とされている。
- 「すべての母」を讃える日へ
- アンは、自分の母親だけでなく「世界中のすべての母に感謝する日」を作るべきだと提唱し、全米で運動を展開した。この純粋な思いは多くの人々の心を打ち、1914年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって、正式に「5月の第2日曜日」が国民の祝日として制定されたのである。

「ええっ!母の日は最初『お葬式(追悼式)』から始まったんだブー!?だからカーネーションを配ったんだブーね。」
第二章:「白」から「赤」へ──意味の書き換え
母の日が国家の祝日として制度化されると、当初の「白いカーネーション」が持っていた意味合いも徐々に変化していく。

- 健在な母には「赤」、亡き母には「白」
- 母の日が広まるにつれ、母親が健在な人は「赤いカーネーション」を、母親が亡くなっている人は「白いカーネーション」を胸に飾るという明確な区別の習慣が生まれた。
- 「赤一色」への統一と商業化
- しかし、「色が違うことで、母親を亡くした子どもが傷つくのではないか」という教育的な配慮から、次第に色による区別をなくす動きが強まった。
- 同時に、花き業界の商業的なプッシュ(販売戦略)が重なり、現在のように「母の愛」を象徴する赤いカーネーションを贈ることが世界的なスタンダードへと上書きされていったのである。

「赤いカーネーションは『生きてるお母さん用』の色だったんだブー!お花屋さんの戦略もあって赤に統一されたんだブーね。」
第三章:創設者の怒り──「私の母の日を返して」
ここで、母の日の歴史における最大の「影」の部分に触れておく。

母の日を創設したアン・ジャービスは、後年、自分が立ち上げたこの神聖な記念日が、メッセージカードや花束の販売といった「利益目的の巨大ビジネス(商業主義)」に利用されていることに激しい憤りを覚えた。
彼女は「感謝の気持ちを伝えるのに高価なプレゼントは必要ない」と強く主張し、自財を投げ打って母の日の商業化に抗議するデモ活動を展開した。その怒りは凄まじく、最終的には「自ら生み出した母の日の廃止」を求める運動にまで至ったのである。
純粋な愛から生まれた記念日が、資本主義の論理によって変質し、生みの親を絶望させたという悲しい逆説が存在している。

「『お金儲けに使うな!』って怒ったんだブー…。自分が作った記念日を自分で潰そうとするくらい、許せなかったんだブーね…。」
第四章:日本における定着──GHQと企業のタッグ
日本に母の日の概念が伝わったのは明治時代の末期である。しかし当時は、現在のように5月ではなく、当時の皇后陛下(香淳皇后)の誕生日である「3月6日(地久節)」に行われていた。

これが現在の形になったのは戦後のことだ。GHQの占領下に入った日本は、アメリカの基準に合わせて「5月の第2日曜日」へと日付を変更した。そして、森永製菓などの大手企業や百貨店が「母の日大会」といった大規模な宣伝キャンペーンを展開したことで、日本独自のギフト文化として全国に広く定着していったのである。
終章:アンの想いに立ち返る
結論として、母の日は「一人の女性の純粋な追悼」から始まり、国家の祝日となり、やがて巨大な商業イベントへと成長した極めて複雑な歴史を持っていた。
近年では、カーネーションに限らず、アジサイなどの多様な花を贈ったり、食事をご馳走したりと、お祝いの形はさらに多様化(あるいは高度な消費化)している。
5月の第2日曜日。
感謝を込めてプレゼントを買うのも素晴らしい経済活動である。しかし、創設者アン・ジャービスが激怒の果てに本当に伝えたかったのは、高価な品物ではなく「日常の照れくささを乗り越えて、ただ『ありがとう』の言葉を伝えること」の尊さであった。
赤い花束を手渡す際、その裏にある「白い追悼」の歴史と、一人の女性の切実な祈りに思いを馳せてみると、母の日が少しだけ違って見えてくるかもしれない。


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