蒸し暑い日本の夏が近づくと、誰もが一度は思い浮かべる理想の避暑地、長野県・軽井沢。
木立の中に佇む西洋風の別荘、洗練されたカフェや教会。日本国内でありながら、どこか異国情緒を漂わせるこの街は、国内トップクラスの高級リゾート地として確固たるブランドを築き上げている。
しかし、軽井沢は最初からオシャレな別荘地だったわけではない。
歴史を紐解くと、この街はかつて近代化の波に取り残され、完全に「忘れられた町」としてゴーストタウン化の危機に瀕していた時代が存在する。
なぜ、寂れた山奥の町が、日本を代表する西洋風の避暑地へと劇的な変貌を遂げたのか。
本稿は、軽井沢が辿ったどん底からのV字回復の歴史と、その運命を変えた一人の外国人の「郷愁」について解き明かすレポートである。
第一章:インフラに見放された「忘れられた町」
江戸時代、軽井沢は中山道(なかせんどう)の重要な「宿場町」として、多くの旅人で賑わう活気ある街であった。しかし、明治時代に入ると状況は一変する。

- 鉄道網からの脱落
- 1885年(明治18年)、近代化の象徴である鉄道(信越本線)が開業した。しかし、険しい碓氷(うすい)峠が立ちはだかり、線路は手前の横川(群馬県)で止まってしまった。
- ゴーストタウンへの転落
- これにより、旅人たちは鉄道の終点である横川周辺(霧積温泉など)で夏を過ごすようになり、そこから先の険しい山道を超えて軽井沢へ向かう者は激減した。
交通のメインストリームから外れた軽井沢は、あっという間に人通りが絶え、文字通り「忘れられた町」へと転落してしまったのである。
- これにより、旅人たちは鉄道の終点である横川周辺(霧積温泉など)で夏を過ごすようになり、そこから先の険しい山道を超えて軽井沢へ向かう者は激減した。

「ええーっ!鉄道が届かなかったせいで、スルーされる街になっちゃったんだブー!?今のキラキラした軽井沢からは想像もつかない大ピンチだブー!」
第二章:救世主は「故郷を想う宣教師」
どん底状態にあった軽井沢を救ったのは、日本の政府でも実業家でもなく、一人の外国人宣教師であった。

- アレキサンダー・クロフト・ショーの来訪
- 1886年(明治19年)、カナダ生まれで英国国教会の宣教師であるアレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を訪れた。彼はこの地の澄んだ空気と美しい自然に一目で魅了されることになる。
- 「スコットランドに似ている」という直感
- 彼が軽井沢をこれほどまでに気に入った理由は、極めてシンプルかつエモーショナルなものだった。それは、高原の涼しい気候と木立の風景が、彼のルーツである「祖国スコットランドの風景にそっくりだったから」である。
- 別荘第1号の誕生
- 日本の高温多湿な夏に苦しんでいたショーは、1888年(明治21年)、旧軽井沢の大塚山に一軒の家を建てた。これが、軽井沢における「別荘第1号」の誕生であった。

「『地元に似てていいな〜』っていう、めちゃくちゃ個人的な理由で家を建てたのが始まりだったんだブーね!」
第三章:「異国情緒」のインストール
ショーのこの行動が、軽井沢の運命を決定づける巨大なムーブメントを引き起こす。

- 口コミによる外国人の大移動
- 「軽井沢という素晴らしい避暑地がある」。ショーが宣教師仲間や外交官たちに口コミで広めたことで、日本の厳しい夏から逃れようとしていた外国人たちが次々と軽井沢に集結した。
- 「西洋の村」の出現
- 彼らは思い思いの洋風建築(別荘や教会)を建て、西洋のライフスタイルをそのまま持ち込んだ。
寂れていた日本の宿場町に、突如として「ヨーロッパの村(コミュニティ)」が形成されたのである。
現在私たちが軽井沢に対して抱く「洗練された洋風の街並み」や「おしゃれな雰囲気」というブランドイメージは、この時に定着した外国人の文化がそのまま根付いたものだ。
- 彼らは思い思いの洋風建築(別荘や教会)を建て、西洋のライフスタイルをそのまま持ち込んだ。
終章:偶然がもたらした奇跡のブランディング
結論として、軽井沢が日本一のオシャレな別荘地になれたのは、綿密な都市開発の結果ではない。
それは、「鉄道の終点から外れたという不運」と、「遠い異国の地を想う一人の宣教師の郷愁」という、歴史の偶然が重なり合って生まれた奇跡の産物であった。
もし信越本線が最初から軽井沢まで通っていれば、単なる温泉観光地の一つとして消費され、現在のような特別なステータスを獲得することはなかったかもしれない。
これから夏本番を迎え、軽井沢の美しい木立を歩く機会があるならば、その西洋風の景色が、100年以上前に故郷を懐かしんだ一人の外国人の眼差しから始まったことに、少しだけ思いを馳せてみてはいかがだろうか。



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