ブクブーニュース Powered by NEWS OFF

なぜ11月5日が「世界津波の日」なのか?──稲むらに火をつけた醤油屋が、世界を動かした日

教養
この記事は約5分で読めます。

11月5日は、日本の「津波防災の日」であり、国連の定めた「世界津波の日」でもある。

津波の記念日と聞けば、2011年3月11日の東日本大震災を思い浮かべる人が多いだろう。ところが、この日は3月ではない。選ばれたのは、江戸時代の出来事にちなむ11月5日だった。

しかも、その11月5日は旧暦の日付である。現在の暦に直せば、季節も日付もずれる。

本稿は、世界津波の日の土台になった和歌山の実話「稲むらの火」と、その日付が世界に採用された理由を解き明かすレポートである。


第一章:11月5日は、「旧暦」の日付である

まず、日付の確認から始めたい。世界津波の日の「11月5日」は、1854年の出来事にちなんでいる。

  • 安政南海地震が起きた日
    • 安政元年(1854年)旧暦11月5日、安政南海地震が発生した。マグニチュード8.4と推定される大地震で、紀伊半島から四国にかけての沿岸に大津波が押し寄せた。
  • 新暦に直すと、12月24日になる
    • 旧暦11月5日を太陽暦に換算すると、1854年12月24日にあたる。つまり世界津波の日は、170年前の出来事の「旧暦の日付」を、そのまま記念日にしたものである。

舞台は、紀州藩の広村。現在の和歌山県広川町である。

夕方に起きた地震のあと、村には津波が繰り返し押し寄せた。被害のなかった家はなく、村では36人の命が失われたと伝えられる。

この夜の出来事が、のちに「稲むらの火」として知られるようになる。


第二章:火をつけたのは、醤油屋の当主だった

この話の主人公は、役人でも、村の長老でもない。

濱口梧陵、35歳。千葉の銚子で醤油醸造を営む濱口家の7代目当主で、ヤマサ醤油の当主にあたる人物である。たまたま故郷の広村に帰省していた梧陵は、地震の揺れと海や井戸の異変から津波を察知したという。

  • 稲むらに、次々と火を灯した
    • 梧陵は、路傍に積まれていた稲むらに火を放った。日が暮れたあと、その火が暗闇の中で目印となり、逃げ遅れた人々を高台の広八幡神社へ導いた。
  • 私財を投じて、村の立て直しに動いた
    • 津波の後、梧陵は被災した人々に住宅や食料を用意するなど、私財を費やして支援した。村を離れようとする人々を引き留めるためでもあった。

そして梧陵は、次の津波から村を守る堤防づくりに乗り出す。

工事は1855年に始まり、約4年をかけて1858年に完成した。長さ約600メートル、高さ約5メートル、根幅約20メートルに及ぶ広村堤防である。費用は当時の金額で銀94貫余り。現代の賃金で換算すれば約5億円ともいわれる巨額を、梧陵らが私財でまかなった。工事そのものが、仕事を失った村人たちの雇用の場にもなった。

梧陵の言葉に「百世の安堵を図る」がある。自分たちの世代だけではなく、百年先の人々の安心までを考える、という意味である。

ブクブー
ブクブー

「ええっ、醤油屋の若社長が、自分の財産を燃やして、人を助けて、堤防まで建てちゃったんだブー!? かっこよすぎるブー。僕もいざというとき、誰かのためにパッと動けるブタになりたいブー!」


第三章:「稲むらの火」は、実話と物語で違う

「稲むらの火」は、戦前の国語教科書に載ったことで全国に知られるようになった。ただし、教科書の物語と、実話の間には、はっきりした違いがある。

  • 物語の主人公は、「高台に住む老人」である
    • 小泉八雲が1896年に英語で書いた「A Living God(生き神様)」では、主人公は浜口五兵衛という老人で、高台の家に住んでいる。津波が来る前に稲むらへ火をつけ、火事だと思って消火に集まった村人たちを救う話になっている。これを地元出身の教師・中井常蔵が子ども向けに書き直し、1937年から約10年間、国定教科書に掲載された。
  • 梧陵本人の手記では、火は「津波の後」に灯された
    • 梧陵自身の記録では、火をつけたのは津波の第一波が来た後のことである。暗闇の中で、路傍の稲むら10か所以上に火を放ち、海に流された人や逃げ遅れた人が、安全な場所へ寄るための目印にした、と書かれている。気象庁の教材でも、実話と物語の違いが表に整理されている。

火をつけた対象も、物語の「刈り取ったばかりの稲束」ではなく、脱穀を終えた稲わらを積んだもの(地元では「すすき」と呼ばれた)だったと、梧陵の手記から読み取れる。

物語は「津波の前に気づいて避難させる」教訓を際立たせるために脚色され、実話のほうは、災害の最中に、暗闇で人を導くという、より切実な場面だった。

どちらが優れているという話ではない。ただし記念日の由来を語るとき、土台にあるのは物語ではなく、35歳の商人の実話のほうである。

ブクブー
ブクブー

「教科書で読んだ五兵衛じいさんと、実話の梧陵さんは、こんなに違ったんだブー! でも、闇の中で火を灯して人を導いた実話のほうが、僕は背筋が伸びるブー」


第四章:なぜ、3月11日ではなかったのか

2011年、東日本大震災を受けて「津波対策の推進に関する法律」が制定され、11月5日は「津波防災の日」と定められた。震災の年でありながら、あえて3月11日は選ばれなかった。

その理由は、世界へ広げるときに、よりはっきりする。

  • 日本は「成功例の日」を提案した
    • 2015年3月、仙台で開かれた国連防災世界会議で、日本は「世界津波の日」の制定を提案した。外務省の説明によれば、過去に大きな被害が発生した日ではなく、早期警報と人々の知恵によって命が救われた成功例にちなんだ日であってほしい、という願いが込められていたという。
  • 142か国が共同提案し、全会一致で決まった
    • 2015年12月、第70回国連総会で、11月5日を「世界津波の日」とする決議が採択された。日本をはじめ142か国が共に提案し、反対なく全会一致で決まったものである。

つまり11月5日は、震災の記憶の日ではない。170年前に一人の商人が見せた「津波から命を守る行動」の日として選ばれ、世界の共通の日になったのである。


終章:記念日は、「助かった日」に作られた

結論である。11月5日が世界津波の日になったのは、この日が大きな被害の出た日だからではない。

旧暦11月5日の夜、広村では確かに多くの命が失われた。それでも、その夜に火を灯して人々を導いた人物がいて、村は堤防とともに立て直された。日本は「命が救われた成功例」のほうを記念日に選び、世界もそれに賛同した。

梧陵が築いた広村堤防は、今も広川町に残っている。完成から約90年後の1946年、昭和南海地震の津波が来たとき、この堤防は再び村を守ったという。

11月5日。津波への備えを考える日として定められたこの日は、災害を悼むだけの日ではない。いざというとき、自分に何ができるかを考える日である。

170年前の闇の中で灯された火は、今もその問いを照らしている。

教養歴史雑学
NEWS OFFをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました